自分探し時代
こんにちは、目黒峰人です。
このページでは、生まれてから、使命に出会う直前までの履歴を紹介します。
目黒峰人(めぐろ みねと)
峰人という名前は、父がつけてくれました。父は登山が好きだったため、峰の人という名前を選んだとのことです。
ところが私は登山が嫌いでした。なんで降りるのに、登るのか意味がわかりません。
自分探し時代と使命時代
私の人生は大きく、自分探し時代と使命時代に分けられます。
自分探し時代
自分探し時代は、自分が今生で行うべき使命に出会うまでの時代です。
自分探しをしている人や自己実現したい人を笑いものにするような風潮もありますが、それでも自分探しを続けることは大事だと思いますし、自分の人生を賭けても達成したい使命を見つけることができた人は幸運だと思います。
生きるべき人生が誰かによって決められている人生を、生きている人も多いのではないでしょうか。誰かとは親や学校、世間や常識、社会や時代精神などです。
私は20代から30代前半くらいまでは、生きているのか死んでいるのかよく分からず、この生に生きる価値があるとも思えませんでした。
しかし30代の半ばになって私は、「もう好きなことしかやらない」と決めました。文字にすると簡単ですが、それまでの常識を捨て、将来の保障を捨てるということであり、かなりの勇気が必要だったことを覚えています。
それ以来自分がやりたいことをやって生きていました。しかし、人生をかけてやりたいことは見つかっていませんでしたし、それがあることも知りませんでした。
使命時代
使命時代は、自分が今生で行うべき使命と出会ってからの時代です。私が使命を見つけ、この使命を生きると決意したのはそれから10年後、43歳の時です。もういい年になってからです。
使命と出会えたのは、お前頑張ったな、というまるで天からのギフトのように思います。使命を見つけることができて本当に良かったと思いますし、もし見つけることができていない人生を想像するとぞっとします。
使命を与えられたことは、私の人生を生きる価値がある人生にしてくれました。本当に感謝しています。
→ 使命時代
このページでは、自分探し時代の記憶を書いていきます。
自分探し時代
子供時代
子供時代(0〜11 岩手→栃木)
私は田舎の官舎に住んでいました。農林水産省系の施設で、広大な農林水産試験場の一部が職員の居住区となっていました。官舎は一軒家でそれなりに部屋数があり、庭はかなり広くて、自然豊かな良い環境でした。
生まれた時から中学生くらいまでは、親の方針で家にはテレビがありませんでした。ですので、自分で遊びを作り、友達と野山を駆け回ったり、動物図鑑を見て動物の絵を描いたり、本を読んだりしていました。ドリフやアニメが見れず、友だちの話についていけないなど当時は嫌でしたが、今思えばこの時の経験がクリエイティビティや体力、自然への観察力や感性、多様な知識への興味を育んだのだろうと思います。
小学生になると、当時は言語化できていなかったものの、大人や学校の不条理さに気がついていきます。小学生後半には、本や新聞をよく読んでいたため、社会問題に関心を持ち、世の中の不公正や不合理性に疑問を持っていました。
学生時代(12〜23 栃木→岩手→仙台→吉祥寺→下北沢)
中学校以降の学生時代には、あまり良い思い出がないように思います。本や新聞を読んでいましたし、父の影響から洋楽を聞いて育ったため、周りの友達とはあまり話が合いませんでした。
思春期以降はいつも怒っていたような気がします。高校ともなるとに世の不合理がよりシステムに組み込まれます。しかし当時はその疑問を整理すること、表現することもできず、ましてや抗うことなど到底できず、厭世的になっていきます。一方、自分自身も自己覚知もできておらず、自分の問題を周りのせいにして自己中心でした。
進学を考えなくてはならない頃、私は哲学者になりたいと思っていました。哲学者になるとはどういうことかも分かっておらず、なんとなくだったのですが惹かれていました。親にそのことを言うと、それでは食べれないから理系に行った方がいいと言われ、そうしました。この時は分かっていませんでしたが、これは私の人生の分かれ道だったのだと思います。
高校を卒業し、即実家を出ました。家から出たことは自由への一歩でしたが、ひどいホームシックにもなりました。
東京に出てからは、楽しいことも辛いことも新しい体験だらけで刺激的でした。ビートジェネレーションと出会って、素朴な日本の田舎者だった私の価値観と人生は大きく変わったと思います。
ピアス・トランス時代(24〜26 下北沢)
24、学校からの解放と同時に、ありがちにインド・ネパールへ。2ヶ月でしたが濃い旅でした。
激痩せして戻ってきました。
→旅:インド・ネパール編へ
この頃ピアスにはまり、原宿のピアス屋さんに入り浸っていました。耳、鼻、舌と言った王道の箇所に加え、手の甲に埋め込んだりもしていました。店長が良い人で本当にお世話になりました。
この頃アメリカに行きたいと思って、ロサンゼルスに行っています。
帰ってきて数日後、暇だったのでバリにも遊びに行きました。
ピアス界隈にいると、タトゥー界隈と繋がり、そこから音楽界隈につながり、音楽好きの人たちにつながっていきます。この頃は、彫師やミュージシャンや美容師、大手ゲーム会社や出版社の人たちと楽しく遊んでいました。週末になると代々公なんかもすごいことになっていて、良い時代でした。マイクロバスを借り切ってレイヴに行ったり、キャンプをしたりと楽しくやっていました。
闇時代(27〜28 下北沢→千葉→下北沢)
遊びすぎて奈落へ落ちます。このころ27才。一番辛くて、訳が分からない時期でした。27クラブと言いますが、確かにこの年齢には何かありそうです。今思えばよく死ななかったなと思います。暴れて措置入院しました。周囲にも迷惑をかけました。
アート・介護時代(29〜39 下北沢→祐天寺→中央林間)
闇時代から徐々に回復しつつあるころ、手に職をつけなければと、何を血迷ったのか介護職に転じます。とにかくしんどい仕事で、最初はとにかく仕事のスピードを上げることばかり考えていました。何個かめの仕事場から心を入れ替え、良い介護福祉士になれたと思います。調べたら29〜40まで続けていました。
31、絵を描き始めます。ある日の夜勤の暇な時、紙に何気なく絵を描いたら、あまり見たことがないような絵が出来上がったのでびっくりしました。
そこから絵に夢中になり、空いた時間はずっと絵を描くようになりました。真冬でもずっと描いていて、手も足もキンキンに冷えていることにも気づきませんでした。絵を描いていて、なんか見づらいなと思って周りを見回すと日が落ちて暗くなっていることもありました。今思えば、それまでの人生の癒しだったような気がします。
また、ある日、「頭が回り始めた」と実感したことがありました。
本か何かを読んでいた時だと思います。頭の中の錆びついた大きい歯車が、ギギッ!ギギッ!と音を立てて動き始め、やがてギリギリ回り始め、スムーズに回り始め、そして高速に回り始めたという体感がありました。不思議な体験で、あ、自分に戻れた、という様な感覚もありました。
それまでの人生で私は頭を使っていなかったのでしょう。おそらくですが、幼い時のいつかの時点で頭が止まったのだろうと思っています。日本の教育や常識や文化は、人の頭を止め、その人の才能やポテンシャルや良心を封じ込める機能を果たしているののだろうと思います。
私にとって学校や社会の常識は私の人生を遠回りさせるものだったと思っています。
34で下北沢で個展、35で公募美術展に入賞し美術館にも展示されました。その他いくつか展示やライブペインティングをしました。
このころは、不思議な体験もしました。
例えば、この頃は、夜寝る前に今日は何かあるということがわかる日がありました。ぐっすり寝ていると、突然金縛りにあい、やっぱり来たかと思います。最初は金縛りに抵抗しているのですが、あきらめて力を抜くと、体が暖かくなってきて、金色の光に包まれます。そうすると足元の方から、背の高い金色の光の男女が近づいてきて、私が痛めている腰のあたりに光を当て始めます。とても気持ちが良く、幸せな気分になります。しばらくすると、徐々に光が弱まり、男女がすーっと去っていき、金縛りが解け、私は暗い部屋の中で目を開けます。
この体験が、本当であっても脳内化学物質のいたずらであってもどちらでも構わないのですが、今でも思い出すと優しいようなありがたいような気分になります。
36、弟が舞踏家で、ニューヨークにアーティストインレジデンスで行っていました。遊びに誘ってくれたので行ってきました。
→ 旅:NY編
このころから東京から離れることを考え始めます。この時は祐天寺に住んでいて、どこでも自転車で行けたので便利でした。代官山や恵比寿のクラブにもすぐに自転車で行けるので、つまらなかったら途中で帰ってこれました。
しかし、すでに15年くらい住んでいたので、東京の面白さの天井も感じていましたし、飽きてもいましたし、自然の素晴らしさに気づき始めていました。この後自然を求め、徐々に田舎に移っていきます。
37、ここまで奇跡的に陰謀論をほとんど知らないで来ていたのですが、苫米地氏の動画や本を読み、すっかりハマることになります。
また、陰謀論とスピは親和性が高く、同じタイミングでニューエイジ的なスピリチュアルに凝るようになります。もともと宗教学や哲学について勉強をするのが好きで、宇宙の捉え方や形而上学について興味は強い方でした。
とは言え、私は当時、自称バランス系陰謀論スピで、根拠を確かめることを自分なりに重要視しており、根拠不明なものは根拠不明と分類して置けるほどにはリテラシーがあったと思います。→ 陰謀論との付き合い方へ
後半、このまま自分はヨーロッパを見ないまま死ぬのかとふと思い、愕然とし、思い切っていくことにしました。このヨーロッパ旅行では、自分の価値観が大きく変わりました。
→ 旅:ヨーロッパ編
38、東日本大震災。デモなどの社会活動をしはじめます
39、友人夫婦から、里帰りするから一緒に行く?と誘われ、ブラジルに行きました。
→ 旅:ブラジル編
年末、遊びで作っていた「にゃにゃにゃにゃにゃんちゃん」というキャラクターを使って町田図書館で個展をやりました。かなり評判は良かったと思います。
→ 個展:にゃにゃにゃにゃにゃんちゃん
このころは、仕事をしながら、絵を描き、お金が貯まると海外に行き、休日になると三浦半島や伊豆に行き、シュノーケリングをやっていました。海に入ると、ただいま感があると同時に、恐れ多い場所にお邪魔している感覚があります。
その流れで房総半島で潜ってみようと、横須賀からフェリーに乗って千葉県金谷市に行きました。そこでKanaya Baseのメンバーと出会い、すぐに引っ越すことに決めました。
陰謀・スピ時代(40〜41 中央林間→金谷)
40、Kanaya Base(以降、KB)は、千葉県富津市金谷にあった、海まで1mの場所に建つ元ホテルと温室を、シェアアトリエに改装した施設でした。
私はその近くの、シェアハウスに引っ越します。
ここに住んでいた1年余りは、ほとんど仕事をしていません。毎日遊んで暮らしていました。KBは広いので、建物の中をペニーで疾走し、作品を作ったり、個展を開いたり、夜に集まって酒を飲みながらパーティーをしたり。
夕方になると、KBの海沿いに仲間たちが集まってきて、目の前の海の向こうに見える富士山の向こうに夕陽が落ちていくのをじっと見ながらビールを飲んでいました。
ここでの生活は短かったのですが、忘れ難い思い出です。
→ KB
KBでも何回か個展を行い、美術館に展示もしました。しかし、このころにはほとんど絵を描かなくなっていきます。理由は、草の中を歩いていたアリの動きを見ていて、自分の限界はまだ先にあるものの、いずれ限界に辿り着くということを悟ったからです。それは能力の限界・物理的な限界・五感の限界という意味でもあります。アール・ブリュットの存在もあったと思います。
また、私は「すべてのアートは音楽に嫉妬する」という名言を残すほどの音楽好きでありながら、音楽には決して手を出さないのは、∈Y∋ちゃんやAfexTwinを超える音を作ることは到底できないし、ましてや自然音には到達できないことがわかっているからです。
41、金谷での最後の活動は、多くの仲間と一緒に実行した、準備から実施まで大変な労力をかけたイベントでした。終わった後虚脱状態に陥っていしまいました。これが東日本大震災の3年後です。このころ1年に3回も風邪を引くようになっていて、体が心配だったのでもっと田舎に引っ越すことにしました。
引っ越した先は打って変わって、山に囲まれた田舎でした。
ここで、思いがけずヴィーガンになり、動物解放という使命を生きることになります。
履歴書
履歴書 自分探し時代(本ページ)(0〜43)
履歴書 使命時代:動物解放団体リブ(43〜50)
履歴書 使命時代:アニマリズム党(50〜)