使命時代は、ヴィーガンへの移行し、動物解放活動に身を投じたときから始まります。
準備期間(42〜43)
目覚め(42)
By http://veg-tv.info/Earthlings, Fair use, https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=37763294
42、3月、今思えばなぜ観始めたかも覚えていないのですが、気づけば『Earthlings』を観ていました。
しばらく前から、SNSを通して家畜動物に対する職員の虐待や屠殺映像が回ってくるようになっていました。動物たちに起きていることについて、なんとなくは知っていましたが、観て見ないふりをしていました。
ヴィーガンという言葉も知っていました。しかしたまたま出会ったヴィーガンの人を見て、野菜ばかり食べるとこうなるのかと思い、自分は絶対にならないと思っていました。ベジタリアンの人に「なんで動物食べるの?」と聞かれ、「え? 美味いから笑」と答えるような人でした。しかし今思えば、こういった動物のことに関する一つ一つの出来事が心のどこかに引っかかっていたのだと思います。
『Earthlings』を見始めたのは夜でした。この映画は、単に残酷な屠殺シーンを流し続けるというものではなく、動物の感情が伝わってくる映画でした。自分の何気ない食事やファッションの裏で、動物たちがどんな目に遭い、何を感じていたかを知りました。
映画を見ている間は、ほとんど何も考えられず、終わった後、呆けたように布団に入りました。しばらくたつと、動物たちがかわいそうで、自分のせいでそんな目にあっていたことが申し訳なくて、涙が出てきて、止まりませんでした。かなり長い間泣いていたと思います。そのうち疲れて寝てしまいました。
翌朝起きるとまだぼーっとしていました。冷蔵庫に行き、中を見ると昨日まで食べ物だった肉や卵や牛乳がだったありました。しかし、もうそのようには見えず、肉も卵の牛乳を見ると、動物の涙や混乱し怯えた表情や、母牛が連れ去られる子供を必死に追いかける姿や、悲鳴や血が思い出されます。そして、それが肉や卵や牛乳の本質でした。
それらを、謝りながら土に埋め、その日以来ヴィーガンとして生きています。
移行
それからネットや本でいろいろ調べました。ピーター・シンガーの本など基本的な本を読んだのもこの頃です。
生活は普通にしていましたが、仲間は私が突然動物を食べなくなったことに驚いていたようでした。最初の頃は、それまでと同様みんなと食事行くことはありましたが、目の前で動物たちが食べられていることや、誰かが楽しそうに食べている姿を見るのが辛くなってきました。そしてある日、誰かがにわとりの丸焼きを頼み、足を掴んで引き裂いて食べるのを見て、もう無理だということを悟りました。それ以来、ヴィーガン以外と食事をするのは、どうしても避けられない時だけになりました。
SNSで荒れていた時期です。というのは、知り合いはソーシャルグッドなことや社会をよくする活動をする人が多かったのですが、動物に関しては正当化を試みたり、まるで無いことのように振舞ったりするからです。
そこで、山登りを始めました。山嫌いの私が山登りをするとは思ってもいませんでした。しかし最初に登った北アルプスの常念岳で、どハマりしました。→ 常念岳
それからその年のうちに9峰登り、冬の間はバッグに重りを入れてトレーニングに励むほど山好きになりました。峰人の面目躍如です。通常の生活から活動家への移行期には、山岳修行のように多くの山に登りました。
43、ヴィーガンになってから1年弱、このになると必要なこと以外誰とも喋らなくなり、周りにヴィーガンも一人もいなかったため、さすがに誰かと話したいなと思い、初めての活動『毛皮にさよなら! 名古屋パレード』に参加しました。はじめて大勢のヴィーガンに会い、こんなにいるんだとびっくりしたのを覚えています。
それから、一旦活動を学ぼうと思い、自分主催のヴィーガン食事会をやったり、デモや勉強会に参加したり、出展や路上活動、デモでのシュプレヒコール担当、路上でのスピーチなど、一通り体験しました。
余談ですがこの頃、TaicoClubで∈Y∋さんに握手してもらいました。Boredoms、Autechre、Clarkが神でした。
受託(43)
そしてその頃、私に使命が舞い降りてきます。なんて、この話は怪しいと思われるのであまり言わないのですが、何かの何かかもしれないので残しておきます。
この頃は、自分の人生を動物の活動に使うべきなのか否か悩んでいました。動物の活動の辛さは知っていますし、経済的には必ず困窮することになるので、今の生活はもちろん老後の生活も失う覚悟が必要です。しかし一人でも多くの人が動物擁護活動を行えば、それだけ動物の状況が少し良くなることもわかっています。とても悩ましい問題で、長い間悩みました。
そんなある日、朗らかな陽気の気持ちの良い日でした。山間の道を散歩しながらそのことを考えていました。活動家一本にすべきか否か。下を向いて歩きながら考え、そして「よし!やろう!」と決意し、上を見上げました。
すると、青い空から、ひらひらと鳥の羽がゆっくり舞い降りてきて、私の手のひらにふわっと乗りました。その瞬間、全身に震えが走り、使命をもらったと感じました。
もちろん、ただの偶然でしょう。しかし、私はその日以来、使命を果たすために生きています。
その羽は今でも大切にとってあります。
Animal Liberator設立まで
44、様々な活動を体験し、いろいろな団体の人に話を聞きに行き、海外の活動を調べ、日本の活動に足りないのは、人とお金だとわかりました。そこで、団体のファンドレイジングの手伝いをすることが自分の役割だと定め、ファンドレイジングスクールに通い始めます。5月に開校し、9月に准認定ファンドレイザー資格取得、翌年の1月に無事卒業することができました。
しかし、スクールに通っている途中から日本に足りない活動があるということに気が付きます。それは、動物解放が目標であると定め、それを表現し、その目標を真っ直ぐに達成するための団体です。最初の頃は、誰かやったらそれを手伝おうと思っていました。私は組織作りや運営が苦手だし、性に合わないことを知っていたからです。しかし、自分しかやる人はいないことは薄々わかっていました。
この頃仕事を辞め、貧乏になることに備え、田舎の集落の端にある家賃15,000円の古い家に移り住みました。
任意団体 Animal Liberator (44〜45)
動物解放を行うための任意団体 Animal Liberatorを設立します。最初の事業対象を、動物園水族館と定め、日本中全ての動物園水族館の現地調査を行うことにしました。
45、クラウドファンディングを2回行い、計283施設(動物園155施設、水族館124施設、その他4施設)を、延べ5ヶ月22日かけて完了しました。これは二度とやりたくないほど大変な事業でした。動物の異常行動、怪我、辛い顔、悲しい顔、助けを求めるような顔を、毎日毎日見ながら、ほとんどを車中泊で行いました。メンタルをやられ、落ち込み、体も疲労し、駐車場の車の中で数日寝込むなど、今思い出してもよくやったものだと思います。
この事業の後、調査の結果をまとめた電子書籍『動物園水族館閉鎖』の執筆に入ります。本を書かれた人ならわかるかもしれませんが、執筆という作業も心身ともに疲弊します。動物園や水族館で出会った動物たちの悲しい顔や狂ってしまった顔、異常行動を思い出しながら、書き留めていくことは、調査の辛さの追体験もそうですが、今あの動物たちはどう生きているのだろうかと想像する辛い作業瀬もあります。この本は、『動物園水族館閉鎖』として販売しています。売り上げはすべて、動物解放団体リブの活動費となります。
また、日本一周調査の途中から、和歌山県太地町のイルカ追い込み漁の調査を開始しています。これ以外にも、追加調査、講演会、イベントなど様々な事業を行いました。
NPO法人 動物解放団体リブ(46〜49)
46、いったん、いろいろな事業が落ち着いたタイミングがありました。団体設立当初から法人化をすべきタイミングが来るだろうと思っていて、この時がその時だと思い、NPO法人化し、ミッションをそのまま団体名にし、「NPO法人 動物解放団体リブ」とすることにしました。
この日、同時に、政治団体 アニマリズム党を設立し、届出を行いました。動物擁護活動は、市民運動から進めると同時に、政治の場からも進めていく必要があるからです。しかし、リブの方が忙しく、アニマリズム党に本格的に取り掛かるのは、50からになります。
47、イルカ漁に関する書籍を執筆するためのクラウドファンディングを行い、和歌山県那智勝浦に住みながら、調査を行いました。この滞在中に、東北へ行きイルカ突棒漁調査、太地町議会議員へのインタビュー、海外団体へのインタビュー、必要な水族館やイルカ飼育施設の調査を行いました。
48、このイルカ漁調査の最後に、現代表と出会うことになります。出会って数日後には、リブの第二期の代表を務められるのはこの人だと確信していました。
私は団体設立当初から、いずれ代表を辞める時が来るだろうとも思っていました。団体立ち上げ期は、一人でも事業を進めていく力がある人が団体を務め、その次は組織や事業を整理し、より高度な段階に引き上げられる人が代表を務めるべきだと考えていたからです。
代表になって欲しいとお願いし、快諾いただき、6月に代表理事を交代し、私は理事になりました。
イルカ漁が終わっても長い間執筆をし続けました。というのは今後のイルカ漁と捕鯨に対する鯨類擁護活動のための資料として、またこれら産業についても文書で残しておく必要があると考え、完璧なものに仕上げると決めたからです。この時の執筆もきつい仕事でしたが、調査完了から1年10ヶ月後書き終わりました。必要な時に必要な情報を取り出せるように、辞書的な使い方ができるように工夫しました。なんと1000ページもの分量であり、日本人のほとんどが聞いたこともないような捕鯨に関する重要な事実も記載しています。
49、この時期は、表だったリブの活動は減りましたが、第二期リブのために必要な時期でした。新代表は、リブのウェブサイトのリニューアルや組織・会計の改善や効率化、リブの組織としてのカラーや、事業、表現方法など全てを見直し、新生リブに脱皮する取り組みを行いました。また、代表は私に、「リブの実務は行わなくてい良いので、「イルカ・クジラ解放」の執筆に集中して欲しい」とし、時間をくれました。代表のおかげで「イルカ・クジラ解放」の完成の時期が早まりました。感謝しています。
また、このリブがあまり事業を行わなかった時でさえ、リブを信じて支援を続けてくださった方には本当に感謝しています。
クラウドファンディングでご支援いただいたウェブサイトリニューアルプロジェクトは、代表が働いていた会社の関係で格安でエンジニアにお願いすることができ完成しました。現在は、ウェブサイトのコンテンツの作成と、既存記事のリライトを行います。
50、ここで一旦、10月に開催する動物解放アカデミーの準備に入りました。Animal Alliance Asiaと共に念入りに準備をし、アカデミーを成功させました。
アカデミー途中の10月中旬から、リブのウェブサイトのコンテンツ作りに入りました。現在も執筆中で、今年いっぱいかかる見込みです。
しっかりした記事は1本書き終えるのにかなりの時間がかかります。記事制作は2名で行っており、流れはこうです。
全てのコンテンツのアイデア出し・分類・精査(この工程はサイトリニューアルのクラウドファンディング開始よりずっと前から行なっていました)
→ 各記事ごとに企画(H2と大まかな中身を作る:1時間)
→ 企画に対してフィードバック会議と修正(1時間)
→ 執筆(根拠を明示し、必要な図をillustratorやCanvaで作り、写真を用意する:5〜10時間)
→修正・校正(?時間)
→最終確認(?時間)
→投稿(?時間)
→SNS用の記事と画像を作り投稿(?時間)
これを最低、69記事分行います。
50、アカデミーの途中からアニマリズム党の記事を書き始めました。以降は、使命時代 第二期、アニマリズム党になります。
アニマリズム党 設立
46、2019年11月1日ワールドヴィーガンデーに、政治団体 アニマリズム党設立を登録しました。
しかし、リブの仕事が忙しく、アニマリズム党に本格的に取り掛かることができたのは、4年後の動物解放アカデミーがひと段落ついた2023年の10月からでした。
アニマリズム党 本格始動(50〜 )
50、現在はアニマリズム党の仕事に一番時間をかけています。ウェブサイトの主要コンテンツ制作をメインに行いながら、勉強をし(オンラインの政治スクールの受講・政治的課題を扱うオンラインイベントへの参加・法律家や学者の方々にアドバイスをいただくなど)、アニマリズム党の組織構築のための基盤作りを行なっています。
現在一番時間をかけているのは、ウェブサイトの記事書きです。
リブの記事と同様、こちらも記事も仕上げるのにかなりかかりますが、そのうち政策の記事は別格で、1本書き終えるのに半月以上かかります。
2024年2月から、このブログのウェブサイトを立ち上げコンテンツを作っているので、仕事時間のほとんどを文章を書いていることになります。→ 目黒の典型的な1日
アニマリズム党の基盤がしっかりしていなければ、政治家志望者の参加も見込めませんし、社会に対する説得力もありません。まずはアニマリズム党の基盤となるウェブサイトを完成させることを最優先にしており、2024年中の完成を目指しています。
また、今年中にアニマリズム党の認知拡大とネットワークの拡大の足がかりも作っておきたいと思っています。
このページは、アニマリズム党が前進するたびに更新します。
今後も、動物解放を目指して邁進します。
私の使命はこれから死ぬまで続きます。
使命を生きる人生は、逆説的なようですが、自分を生きる人生です。
私は、数々の失敗、辛い思い、恥ずかしい思い、寄り道、回り道をしてきました。しかし、だからこそ、かつての私のように、怒ったり、落ち込んだり、失敗したり、人生がうまくいかなかったり、病んだりしている人に何かできるのではないかと思っています。
今後、人に貢献する活動を展開することも視野に入れています。
履歴書
履歴書 自分探し時代(0〜43)
履歴書 使命時代(本ページ)(43〜?)